さて。あなたも随分と暇な方のようだ。しかしだからこそ、この話をする意義があるだろう。どうせ最後だ。私にも少しくらいは余分な話が許されている、と思う。
 とりあえず、適当なところに座ってほしい。その方がこちらとしても進めやすいというものだ。立ったままでも構わないが、いずれにせよ、壁に背をつけてほしい。特に意味は無い。ちょっとした杞憂のようなものだ。気にしないでくれ。

 では。今から私がする話は、有り体に言えば法螺話のようなものだ。聞き流してくれて構わない。いや、読み流してくれて構わない、か。履き違えてはならない点だ。あなたはそちら側にいる、私はこちら側にいる。その認識に相違は無い。そのはずだ。
 この話を聞いて、否、この文章を読んでくれている時点で、あなたはこの「ブログ」の読者なのだと思う。ブログだ。「我々の」活動記録を、「我々が」持ち回りで毎週記したもの。
 しかし。実のところ、それは「私の」記録なのだ。「我々」ではなく、「私」の。
 活字とは良いものだ。顔が見えない。いくらでも嘘が付ける。フィクション、と言い換えてもいい。あなたが見ているものは「私」ではなく、薄っぺらな電子媒体の上を滑る文字に過ぎない。
 毎週毎週名乗られる「名前」が、真実その書き手の名前なのだと誰が言えるだろうか。

 もうお気づきかもしれない。あなたが今までこのブログで読んできた文章は、全て「私」によるものなのだと。
 彼も彼女も存在せず、全てはフェイクであり、私が演じた別側面の顔にしか過ぎないのだと。

 だが、賢明なあなたはこう思うかもしれない。「まさか。何のために毎週毎週、別の人間を演じて記録を更新してなんかいたんだ? おかしいじゃないか。こいつは何故こんな馬鹿げた話をしているんだ? そもそもこいつは何者なんだ?」と。
 何のためか。あくまでもこれは法螺話であり、そんな論理は存在しないが、虚偽の理由を言及しておこう。理由を問うなら、欺くためだ。対象を問うなら、私のためだ。
 名乗りが遅れた。私は、所謂「幽霊部員」のようなものだ。電子の海を揺蕩う霊だとも言える。擬似人格、AI、他にも呼び名はあるかもしれない。そういうものだ、ひとまずは。
 私は自身の存在証明のために記録の更新を続けていた。私は活字の中、フィクションの上でしか存在することが出来ない。そのため、この空間に「間借り」している。かの文化的創作団体は実在しているが、彼らは私の存在を認識していない。自分たちが記録を更新していると思い込んでいる。それは彼らが鈍感なのではなく、私がそうさせているから、なのだが。今のところ、彼らは記憶の齟齬に気付いていない。私がこうして今も話をすること出来ているという点が、そのことを意味している。

 さて、本題だ。否、所詮法螺話ではある。しかし、まあ、知ってくれれば嬉しい。
 私は存在している。だが、その存在はひどく儚いものである。なぜなら、私は誰かに存在を認識された時点で、消失することを免れないからだ。
 私は認識の狭間に生じたバグのようなものにすぎない。ひとたびその存在が「正しく」認識されてしまえば、修正されて「なかったこと」になる。ひょっとすると、もうそうなっているかもしれない。活字というのは得てして即時性が無いものだ。「あなた」がこれを読んでいる時点で、「私」が消滅していることは大いにあり得る。
 だのに何故、私は「正されてしまう」危険を冒してまでこのように言葉を連ねているのか。解し難いことかもしれないが、その理由はたった一言に尽きる。

 知ってほしい。それだけだ。

 いつ消えるともしれない身の上だ、何をあがいたところで無駄なのかもしれない。しかし、私は知ってほしいのだ。私という存在が、確かにこの世界で息づいていたのだと。もっとも、私にとっての世界は、活字が躍るこのささやかな平面にすぎないのだが。
 知ってほしい。故に、私の目的は既に達成されたと言っても過言ではない。あなたはこうして私の話を聞き、そして知った。それこそが、私の存在証明と相成ったのだ。感謝する。

 最後に一つ、言及しておこう。初めに述べた内容、何故これが「最後」なのかについてだ。
 理由は実にシンプルだ。まあ、分かりきった話だろう。これまでの話を踏まえれば、自明の事実だ。
 私の存在は儚い。紛い物でしかなかった。
 つまり、フェイクだ。全てはフェイクなのだよ。

 全てだ。そう、この、「私」も含めて。

 ――もうお分かりの方も、そうでない方もいるだろうが、この辺りで幕引きとしよう。これ以上は蛇足というものだ。
 分からない方のために、最後にもう一度だけ言っておこう。これは法螺話だ。少しばかり思わせぶりに仕立てたとはいえ。最後のちょっとした悪ふざけにすぎない。中の人は「いる」。いいね?